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2009年02月07日

素の経済学

経済学者でもない私がこのようなことを考えるのは、現在、私自身がベンチャー経営に携わっていることが大きいが、この分野がどうもよく理解できておらず私 なりの理解を深めたいからである。新聞の経済面に書かれている内容は専門用語のオンパレードでよく分からないことが多い。今回は素を良しとするこのブログ の基本精神にのっとり、理解の途上ではあるが、思い切って私なりの経済学について披露したいと思う。

お金持ちを多くの収入を得る人(あるいは法人でもよい)だと定義すると、彼らは当然多くの出費もするから、お金の出入りはともに多い。支出は他の人の収入 となり、たくさんの人々が互いにお金の出入りを枝とするネットワークで結ばれ、この世の経済活動はモデル化される。景気が良いとは、この人と人を結ぶ枝が 全体的に太い状態をさし、お金の廻りが良い状態。逆に景気が悪いとは全体的に枝が細い状態をさし、お金の廻りが悪い状態である。このようなネットワークを お金ネットワーク、各枝を金官と呼ぶことにしよう。

このお金ネットワークの流れを制御するのは心臓に当たる銀行。銀行には2種類あって、お金製造機である日の丸銀行とポンプ役を担うタダノ銀行。タダノ銀行は複数存在し、日の丸銀行で作られたお金を借りて、お金ネットワーク内の各人へお金を供給するのである。

タダノ銀行は日の丸銀行からお金を借りるのだから、当然返さなくてはならない。したがって、彼らがお金ネットワークの各人にお金を供給する時には、利息を 付けて回収できることが前提となる。ここで、リスクという概念が発生する。お金を貸したところで、必ず回収できるわけではなく、回収できなければ損をす る。つまり、お金を貸すとは貸し倒れの危険を覚悟の上で人にお金を供給するのである。

担保をとりお金を貸し出す連中は真の意味でリスクを取っているとは言えない。彼らは貸した相手からお金の回収ができないとなると、貸したお金に資する不動 産等の現物を召し上げるのである。すなわち、このような類の金貸しは担保を有する限定された人にしかお金を供給せず、かつ仮に回収できないとなると、その 人の財産を奪い、この人から生ずる金官を限りなく直径0に近づけてしまうのである。このような金貸しばかりがポンプの役を担うと、景気を良くする効果すな わち金官を太くする効果は限定的であろう。

ところが借りた金を面白く使う連中がいる。無担保で貸し出す連中だ。彼らはイノベーションに対してお金を供給する。この行為は投資といわれ、彼らを投資家 という。投資家は投資と引き換えに投資先の株を手に入れる。株もある意味担保といえるかもしれないが、株は投資先が勝手に刷った紙であるから、土地などの 現物とは異なり、価値無しに容易になりうる。したがって、金貸しの担保とは性格を異にする。

投資家は投資先のイノベーションに賭け、株の価値が上がることを信じリスクを冒す。ある人がイノベーションによってお金の出入りを良くすることができれ ば、この人から出る金官は太くなり他の人のお金の廻りすら良くする方向へと導く。こうしてお金ネットワークの金官は全体的に太くなり、景気は良くなってい く。投資先に土地などの担保はいらない。イノベーションがあればいい。

投資家が積極的にリスクを取るようになると、タダノ銀行の貸出需要が増え、日の丸銀行は需要に応えるためお金をたくさん刷って貸し出す。金官は太くなり、 景気は良くなる。お金ネットワークに供給されるお金の量は増える。すなわちイノベーションはお金を増やすのである。お金ネットワーク内の人の数は常にほぼ 一定であるから、流れるお金の量が増えれば物品・サービスの価格は上がりインフレが起こる。

人類は数えきれないイノベーションを生み出し、お金を増やしてきた。今は急速に金官が細くなっていっている状態である。しかし、投資家がリスクを冒すこと をためらうようであってはならない。投資家がリスクを冒すことをためらうと、それはイノベーションを開花させる確率を下げることになり、ますますお金ネッ トワークの金官は細くなっていく。太くするための特効薬はイノベーションを増やすことである。そのためには投資家が積極的にリスクをとるように仕向ける政 策が重要であろう。そのひとつが日の丸銀行の貸出金利を低くすることだ。

リスクを冒すこと、イノベーションを成すという覚悟、いずれも心理的な要素が大きい。景気が悪いからと言って、盲目的にリスクをとることをためらう行為 や、イノベーションを成す覚悟を捨てる行為は、さらに悲劇的な状態へと自らを陥れるだけだ。イノベーションに景気の良し悪しは関係ない。むしろ、景気が悪 いそのこと事態が新たなイノベーションを生む素地になる。
  
タグ :経済


Posted by furuhiro at 00:00Comments(0)経済

2009年02月01日

特許と論文

iPS細胞の作製に関する発明は世紀の発明とされ,連日新聞紙面をにぎわせている.議論の対象となっているのは特許に関することが多く,つい先日も,バイエルン製薬のヒトiPS細胞作製に関する特許が公開されたことがニュースとなっていた.

iPS細胞の発明者である京都大学・山中教授が同細胞の生成法に関する特許を出願したのが2005年12月.しかし,次の年にはサイエンス誌に本成果に関 する論文が掲載されたというから,特許公開前に発表したことになる.これだけ注目されている技術である.商用化フェーズへ移行すればおそらく大変な特許紛 争が起こるだろう.成果の論文発表を急いだ山中教授の気持ちはよく分かる.良い成果はすぐに論文で発表したいと思うのは大学人なら誰しもがそうだ.なぜな ら,研究者の評価は,多くの場合,論文の質と数で決められているからである.

反対に,昨今の先進的企業の多くは論文発表はあまり重視しない.重要な技術は直ちに公知の技術となってしまう論文ではなく,特許として法的に守られた権利 として囲い込むことを優先するのである.今この瞬間にも,論文として公にはならずとも世界中のどこかの企業あるいは研究機関が革新的な技術を発案し特許申 請していることであろう.出願した特許はある期間が過ぎると必ず公開される.その時になってはじめて公になるのである.山中教授が,彼の革命的な発明を公 開前に論文発表してしまったことの是非は,歴史がやがて明らかにしてくれるだろう.

私が第三世代移動通信の標準化で色々と鍛えられた末に会社を辞めて大学へ戻ってきたとき,以降の自ら研究スタンスについて誓ったことがあった.それは論文 発表よりも特許出願を優先させるということである.これは標準化活動での経験からそう誓ったのである.しかし残念なことに,特許はその当時から現在もな お,大学ではあまり評価されない成果とみなされている.大学へ異動してから今日まで,良いアイデアの特許化を優先し論文は二の次として研究に勤しんでいた 私は,発表論文数が少ないと辛酸を舐めさせらたこともしばしば.しかし,やはりあの時の誓いは正しかったと信じている.

私が活動している通信分野の学会で最近起こっている現実にどれくらいの大学人が危機感を持っているだろうか.

この分野は長年,通信事業会社や通信機器メーカに属する技術者・研究者が技術をリードしてきた.かつて彼等は学会を自ら生み出した技術をアピールし産業界 へ影響を与える絶好の場ととらえ,積極的に最新の成果を披露してきた.しかし最近では,これら産業界に属する技術者にとって学会はあまり重要なものとはみ なされなくなってきた.彼等は学会ではなく,標準化の場で自らの研究成果を披露し,他社との激しい競争を行っているのである.なぜなら標準方式として採用 された技術は,数年以内に実用化され,発明者が所属する企業にロイヤリティ等の形で収益をもたらすからである.一方の学会は,標準化でさんざん議論し尽く された内容のものがワンテンポ遅れて卸され,議論されるといった有様である.多くの学者は自らの研究テーマの探索に学会での動向を参考にする人が多いと思 うが,これだとワンテンポ遅れて卸されてきた産業界の技術トレンドをさらにワンテンポ遅れで追いかける羽目になってしまう.このような状況下で,産業界が 認め積極的に採用してくれる革新的な技術を大学が主導し開拓していくことなど可能であろうか・・・学会は減る一方の会員数を増やすために,あの手この手を 仕掛けているが,まずは産業界で起こっているこの技術開発ゲームの様態の変化をとらえるべきであろう.

この状況が進行すれば,学と産の壁はますます厚くなり,大学の「象牙の塔」化がますます進む.学生にとってみれば,大学生活と会社生活との隔たりの大きさ に脅え,とても呑気に博士課程まで進み大学で技術を極めたいとは思えないだろう.このような状況は通信の分野だけに限らないのではないか?

大学は変わらなくてはならない.産業界が戯れているゲームの世界にももっと多くの大学人が身を投じてよいではないか.もっと組織的に行動し,標準化などの 場へ大学が主体となって参画してもよい.あるいは,大学発ベンチャーをもっと積極的に進め,産学のかけ橋にこれらを利用するなどの方法もある.いずれにせ よポイントは大学人が学会発表という手法だけを自らの研究成果をアピールする機会ととらえる時代は終わりを告げようとしているということだ.我々はもっと 多様な場を活用できる.たとえば標準化の場しかり,webページやプレスリリースによる成果発表しかり.これらのメディアを活用し,社会に大きなインパク トを投げかけ,そして究極的には,リスクテーカーからの新たな投資を引き込む新技術,新産業をどんどん創出していかねばならない.このプロセスと論文至上 主義とはあまりにも距離がありすぎる.

これらの活動を行う場合に重要な後ろ盾になるのが特許である.産業界と同じ土俵で切磋琢磨するためには特許による権利化は必須である.特許は,その審査の 経過で通常の論文査読に準ずるレビューを経るため少なくとも権利化された特許は技術的にある程度は確かなものである.何より自ら発案した技術を法的に守っ てもらう権利を獲得できることが重要である..

このような活動ができる人材を大学はもっと増やすべきだ.大学改革の必要性が叫ばれ,そしてさまざまな試みが実践されて久しいが,真に改革すべきはこのよ うなダイナミックな潮流の変化を捉えられる柔軟なマインドセットを持った教える側の質にある気がしてならない.どんなに優れたカリキュラムを編成しても, 教える側の質が変わらなければ元の木阿弥.教える側も教わる側も,どちらもハッピーにはなれないだろう.
  
タグ :特許発明


Posted by furuhiro at 01:00Comments(0)特許