スポンサーサイト

上記の広告は2週間以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書くことで広告が消せます。  

Posted by スポンサー広告 at

2010年10月04日

「学問のすすめ」が教える「独立のすすめ」

40を過ぎたこの年になって、初めて福沢諭吉の「学問のすすめ」を読んだ。共感する部分が多々あり、また今の時代にこそ読まれる本だと思い、小欄で取り上げたい衝動にかられた。

独立心が無い者は「習い性」となり、卑屈になる。ネット上を渦巻く匿名での誹謗中傷や過剰なまでの攻撃性は、まさにこの卑屈さの表れに他ならないだろう。

諭吉は卑屈にならないためには、学問を修めて賢くなり、独立せよと説く。彼の考えは、国家の独立にまで言及されている。

もっと賢くならなくてはならない・・・この主張は明治維新の頃の前近代では当てはまるかもしれないが、現代においては当てはまらないと考える読者がいるかもしれない。しかし私はそうは思わない。確かに、国民の平均的な学力、つまり国四則演算や漢字の読み書き能力、は昔に比べると向上したかもしれない。しかし、自らを省みて、我々日本人は賢い民だと胸を張って宣言できるだろうか?

現在の政治を嘆く者は多い。しかし、今の政治を選択したのは我々自身ではなかったのか。
マスコミの街角インタビューで、「今の政治に何を期待しますか」と問われた有権者が、まるで君子になったかのごとく政治の体たらくを嘆く。しかし、彼にそう言う資格があるのか?体たらくを嘆くほど、自らが主体的となり世の中のために奉仕してきたと胸を張って言えるか?

諭吉は説く「愚かな民に愚かな政治は宿る」と。今の日本は、国の補助なくしては多くの産業がたちまち立ち行かなくなると言われている。つまり個人のみならず、企業すら習い性になってしまってはいないか。習い性で生かされた古い企業群が、既得権をがっちり握り、挑戦者たちの行く手を阻む社会になってしまった。日本でなかなかベンチャー企業が育たない理由の一つと思えてならない。

国民が過度に国を頼った結果、既に身の丈に全く合わない支出を続けざるを得ない財政構造に陥り、いつ国家破綻してもおかしくない状況に陥ってしまった。これは政治のせいではない。国民自らが招いた結末である。

今こそ、日本人は独立心を持って自らの生き方を考え直す時に来たのではないか。学問のすすめは、我々の大先輩が後世に残してくれた至宝の書である。
  


Posted by furuhiro at 18:06Comments(1)教育