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2009年12月30日

博士の育て方

私が博士号を取得したのは、28歳のとき。授与が決まった時は嬉しくて夜も眠れないほどであった。地元以外ではあまり名が知られていない地方の国立大学を卒業し、職場の有名大学修士卒の同僚たちの狭間で劣等感を感じつつ、彼らになんとか追い付こうと努力していた若い時分に、大きな自信と仕事に対する活力を与えてくれた。学位授与式には、最高の親孝行ができるとわざわざ両親を呼び、学位記は奮発して立派な額縁に入れ、自宅にしばらく飾っていたものである。こんな感じで、私の博士号への思いは並々ならぬものがあった。

ところが、である。最近の若い人達にとっては、博士号というのはもはや憧れの学位ではない。答えは単純。就活で不利だし、持っていても会社で特段評価されるわけでもないから。なんとも合理的である。選ぶ会社側も合理的だ。博士を出た学生がすべて逸材ということはありえない。平均を断ずれば、修士卒後3年の経験を積んだ従業員と大して差はない。となれば、彼らを特別扱い出来ないことは当然だ。

まず工学における博士とは、もはや類まれな成果を残したことに対する名誉の称号ではない。A級人材であることを保証する、いわばライセンスのようなものである。今時の企業が博士人材へ求める能力は、即戦力として仕事をバリバリこなせることに尽きる。ではそのような能力を持った人物とは一体どのような人物なのか。私の経験上、会社で評価され、また確かに良い成果を残している人たちの人物像というのは、おおよそ以下の能力を持った人たちである。

・早く的確な文書が書ける。報告書の作成が早い。
・説明に説得力がある=プレゼンテーションがうまい
・与えられた仕事を期限までにキチッと完遂できる
・専門分野への深い理解

上記4つの能力の獲得が企業への就職に有利だとすれば、博士課程における教育とは、専門分野における最先端をテーマにした研究開発を通じて、これらのスキルに磨きをかけることとなる。独創性は、わずか数年の大学教育によって身につくものではない。その個人の体験や性格、また仕事を通じた経験に大いに依存する。独創性を養うという名の下、若い学生へ完全なる自由を与え論文を書くことだけを目標に据えるのは違和感がある。。

教員は学生へ具体的かつ明確な目標を、達成期限をつけて与える。学生は、その完遂へ向けて試行錯誤を繰り返しながら研究開発を進める。この過程において、何度も学生へ説明の機会を与え、説得力ある説明の訓練を行う。説明の訓練では、自分が喋ったことが相手にどう伝わったかをフィードバックし、時に真摯に反省させる。また、定期的なレポートを書かせることで文書作成能力の向上を図る。専門分野の知識は、文書にまとめさせれば、その個人がどれほどのレベルにあるかを直ちに把握できる。与えられた目標を期限までに完遂させるには、目標達成に至る小目標を定義し、各々の達成時間を正確に予測するスキルが求められる。

上記のような教育のやり方は、何か無機質で人間味のない様に映るであろう。しかし、博士号取得者大量生産の時代にあり、その育成論にひとつの指針を求めることは間違ったことではなかろう。上記の育成案は、既存企業の価値観への迎合を前提に、私がこれまで実践してきた博士育成の方針である。しかし、これからの時代へ向けては、修正が必要と考えている。

これからは破壊の時代である。企業の新陳代謝が否が応にも進んでいく時代に突入する。このような壮絶な時代において、博士号を持つA級人材が果たすべき役割は大きい。アントレプレナーシップと言う言葉に代表されるような、独立心旺盛な起業家マインドを持った人材をどう育成するかが重要度を増す。博士号のあり方は時代背景を抜きにして考えることはできないのである。

本当に教育は難しい。
  


Posted by furuhiro at 00:56Comments(0)教育